柳原鉄太郎のブログ

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2028年12月01日(金)
【生きてあり】
映像の進歩はめましく、一瞬という時間でさえコマ送りでゆっくり解明することができる。時を競う試合の判定も容易に決着がつくし、事故や事件のなりゆきも一目瞭然になったのはすばらしい限りである。

一方で、コマ送りが可能になった今だからこそ、時を刻む切なさも余計に募る。

「この瞬間」についてしまう勝負の分かれ目、人生の明暗。観るほどに、映像のコマならぬ、本当の時計の針を少しでも巻き戻せるならば、例えば、目前の不幸な災害、あの望まない戦争だってなんとか回避できたのではないだろうかと。

天地開闢以来、時は一秒たりとも止まったことはない。時の流れは無常であり、ことさら人間には酷薄、常に手遅れの感を与える。

だからこそ、この瞬間にしっかりと生きている貴さを、私たちはもっと知るべきではないだろうか。社会は不条理にあふれ、肯定感がない人が多いのはうなずける。それでも今、生きてあるのを幸せと呼ばずして何と言おう。その自覚から、明日が、そして新しい年が希望とともに意味を持つのである。

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2028年11月01日(水)
【果断と行動】
英雄は窮地に立って真価を発揮する。例えば、中国三国時代の曹操孟徳は真夏の行軍で苦しんだ。兵は渇きに苦しみ、士気は上がらない。そこで曹操は、「あの丘を越えれば梅の林があるぞ」と叫んだ。すると、兵たちは反射的に梅の酸っぱい味を思い出し、唾液が口中に充たされ、渇きを湿らすことができたという。

また、織田信長が桶狭間の合戦で、籠城より奇襲を選択、清州城から出撃したとき、随行したのはわずか十騎だったという。兵が集まるのを待たなかったのは、何より速度を重んじたからだった。そうしないと奇襲にならない。

危機に陥っても活路を見出す人は、不足を嘆くより、その条件下で何ができるかに照準を当てる。とかく世の中、条件が揃わず、前に踏み出せない人ががかなり多い。見方を変えれば、それは単なる逡巡、動かなくてもよい理由を探しているだけなのかもしれない。

まだ大丈夫という認識、あてのない誰かの支援。そこを期待するより、危機には果断、そして自ら行動する勇気を待ちたいものである。

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2028年11月01日(水)
【場】
先ほどまで竹刀の音が響いていた道場で、剣士たちが正座し黙想、そして静かに道場に一礼する。ユニホームを泥だらけにした野球少年らが一列になり、大声とともにグラウンドに向かってお辞儀をして練習を終える。

多くのスポーツ選手が示す、場に対するゆかしいふるまいは、観ている者にも一服の清涼剤である。その清々しさがどこから来るのかといえば、自分たちが鍛えられるところ、成果を出すところという場の意義をよく理解し、感謝と敬意を忘れないからではあるまいか。

これは日本人の礼のしつけの一端に依るものであり、海外のスタジアムで、日本人観光客が観戦後に座席を掃除して賞賛されるのも、同じ意識の発露なのであろう。

人間同士の礼にとどまらず、こうしたいわば場への礼の精神が浸透すれば、社会はより豊かになるに違いない。

多くの外国人が来日し、海外との交流はますます深まろうとしている。グローバルな時代に、日本人の一人として場に対する美意識を世界にも広めたい。そして自分にとっての場をどのように大切にするか、時に思いを巡らせたい。

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2028年10月01日(日)
【磁石】
磁石を手にして、鉄分の多い海岸や公園の砂場の中にくぐらせてみれば、砂鉄がびっしりと付いている。

面白いのは、人間も又、磁石のようなところがあって、ある人が集団の中に混じっていけば、そこから沢山の人の輪が作り出されることもある。

それは、その人に人を惹きつける何らかの要素が整っているからである。其の何かは、洗練された立ち振舞いだったり、人一倍の情熱、無償の愛だったりする。

其の人の持つ磁力次第で、危機に陥っても、思わぬ幸運が舞い込む。周囲の支援が絶えず、失敗に帰すような形勢になっても、挽回して成功に至る。寛容な奇跡がいくらでも起きるのだ。

リーダーの強い熱意が磁石となって、集団が一丸となる。同じ興味で集まった人がお互いに磁力を引き付けあってチームができる。それぞれ素敵ではないか。こうして人が集まり、約束すれば絆も生まれる。

人もまた磁石となれーー其の特性を高め合って、組織、地域、社会全体が繁栄に導かれることを祈りたい。

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2028年10月01日(日)
【鏡】
鏡とはありがたい。いかなる時でも、まぎれもない自分を映してくれる。暮らしの中で鏡がなければどれほど不便であろう。自分の身ごなしが望ましい姿かどうかを映し見るために、鏡は不可欠な物である。

自分を映すという点では、お互いの心も鏡に似ているのではなかろうか。人と人が交流する際、観応しあうのが人間というもの。己の傲慢な振る舞いは相手の傲慢を呼び、謙虚な振る舞いは相手の謙譲を惹起する。

時に一方的な思い込みはあるものの、相手が自分に抱いている感情は、自分がその相手に抱いている感情が何がしか投影されているとは言えまいか。だからこそ礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。まさに鏡の如くなのである。

人として生きることは、いかに他人とともに生きるかでもある。他人に誠実でありたいと望むなら、何が正しいのかを問いつつ、常に自分を省みる努力が求められよう。その試みのために、相対する人の振る舞いをわが姿見として、みずからを律したい。

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2028年09月01日(金)
【マジック】
人間が瞬間移動したり、破った紙幣が復元されたりと、マジックは年々技術が向上し、幻想の世界が創り出される。

其の感動があるから、人は更に不可能な奇跡を望み、又新たなマジシャンが期待を超えるマジックを実現、進化を遂げる。

一方、奇想天外なマジックが実演されても、此れ迄本物の魔術を披露した人はいない。つまり、其処に超能力者がいるのではなく、当然ながら、マジックは数々の技術の組み合わせから、人間の思い込みを誘って巧みに演出される芸術だと納得するのである。

社会には、同様にマジシャンと呼ばれるカリスマが沢山いる。例えば、スポーツで見事な指揮を執り、いつも勝利を得る監督や、ビジネスで見事な指揮を執り、何時も勝利を得る監督や、ビジネスで必ず利益を出す経営者も又、マジックに見えて人の心理や情報を読み、自然の理に適うことしかしていないのではないだろうか。

多々、誰でもできる修練も、誰にもできないレベル迄熟練してこそマジックは成る。其の為には、やり抜く熱意と弛まぬ努力が必要なのは言うまでもない。

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2028年09月01日(金)
【伝え方】
携帯電話やメール、そしてインターネットによる種々のサービスにより、気持ちや情報を伝えるのに、これほど便利な世の中になると誰が想像したことだろう。

ただ、それによって人と人との相互理解が進んだかといえば、残念ながらそうではない。いささか減るどころか、コミュニケーション不足による事故や事件は、日々増すばかりである。

その一因は、情報ツールにおける些細な誤解があるからではなかろうか。たとえば、スマートフォンでメールを書き、送信ボタンをクリックすれば、送信者側はその瞬間に伝えたと思い込み、見てない受信者側をつい非難してしまう。また、単なる言葉の打ち間違えが、相手の心のしこりとなって、あとで大きなトラブルに発展することもある。

伝える手段が多いのはありがたい。けれども、伝え方には長所があり、手間がかかっても直接話し合ったり、手紙を書いたりすることもやはり重要であろう。

情けに報いると書いて情報である。伝わればよいのでなく、よく伝えようとする心がけを忘れずにいたい。

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2028年08月01日(火)
【心根】
人間は善い人や悪い人、賢い人に愚かな人、情熱的な人や冷静な人など、沢山の人に分類されるものではない。

一人の人間の中に、例えば正直な心が宿っている時間が長い時もあれば、不誠実な心に支配されている時間が長い場合もあるように、沢山の心が顕れては消えていく。

今、戦争をしている人の中にも生まれて初めて残忍な心に染まった人がいるだろうし、良心の呵責に耐えきれず、血の涙を流している人だっている事だろう。

儘ならない、まして心ならず自分の信念に反した仕事を強いられるのは悲しい限りである。世界や社会が複雑になって、表面から推察できない不条理が、胸の奥の美しい心根を痛めつけてはいないか。

怒りが怒りを呼び、心の中が暴風雨に晒されている事もあるだろう。例え一時そうなったとしても、人の心根に宿る善性は必ず復元できると信じたい。

人の絆や家族や社会が分断されないように、忘れがちになる自分の内なる無垢な心根だけは守っていこう。心根を決して腐らせてはならない。

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2028年08月01日(火)
【涙】
産まれたわが子を初めて見る若き母親の安堵の涙、親を失ったおりに流れる惜別の涙、あるいは美しい映像や音楽に昂って流す涙。

さまざまな涙があるけれど、うれし涙だけが望ましいというものではない。悔し涙を流した体験が人を発奮、成長させ、うれし涙を味わうことに繋がっていく場合もあるからである。これからどんな由縁で泣くにせよ、都度、何がしかの彩りを人生に与えてくれるのが涙であるのは間違いない。

今、涙活という言葉を耳にする。それは意識的に感情を昂らせ、涙を流すことでストレスを解消しようという意味の現代用語である。現代人は周囲との摩擦を避けるために感情を抑え、本音を容易に話せない。だから、言わば理屈や規則に縛られた社会へ反発するように、無理して泣いて鬱憤を晴らすようとするのであろう。

強制的に自分を泣かすまでしなくとも、人は時に心ゆくまで涙を流してよい。単に自分を解放するためだけでなく、人としてもっと自然に生きるため、そしてより豊かな人間性を養うためにも。

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2028年07月01日(土)
【本当の志】
進学の時、人生の選択を迎えたりすると、人はにわかに進路を選択しなければならないことに気づく、すると、世間における自分相場が一気にはじき出され、いつしか人と競合している現実を知る。

今さらながら、世の中は多くの人生がぶつかり合い、競り合って共存している。誰もが決めてしまった第一志望を頭上に掲げ、一歩も引きたくない思い出努力を始める。

ただ、たとえ選択に勝ち残っても、理想のキャリアに直結するとは限らない。真に自分が望む生き方に沿うかどうかが問題で、年を経ら間にそこをきっちり見定めることができるかが大切である。

ともすれば人は、何をしたいかより、どちらが有利か不利かで判断してしまう。そして後になって、第一志望でなければいけない理由など、たいしてなかったことを悟るのだ。

どんなに生きがいを持って生きてゆくのか、自分の本当の志にこだわっていくべきか。人生は長くなったが、志を得るには短い。一度の人生、必要なのはじっくり振り替えった時間なのかもしれない。

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2028年07月01日(土)
【自分との対話】
私たちの多くは、自分の人格が一つではないことを知っている。たとえば、物事を決める場合、私たちはつい利己的な方向に終始する。

勝負事ともなれば、勝てば驕り、負ければ意欲を失う面倒な人格の自分もいる。利他の精神などとても覚束ない。

そんななかでも、自分を客観的に見つめる聡明な自分は、必ずいる。ただ問題は、その聡明な自分が、必要なとき、必要な場面で現れるかどうかであろう。もしそれが可能となれば、常に分別ある判断ができるし、道を誤ることはない。

ところが、聡明な自分こそ心の奥から容易に出てきてはくれない。反省しきりの頃にようやくご登場なのである。

日常の自分は、世間体や常識といってもよい。心もとないこと甚だしい。

とはいえ、頼みごとになる自分でいるには、日常から心を静め、素直な心で、さまざまな自分との対話を重なることしかないのではないか。聡明でありたいと願う心が、少しずつ人格を変えるはず。望まない自分ともいつか決別できると信じたい。

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2028年06月01日(木)
【期待はずれ】
何かを成し遂げるために計画を立てる。翌日から力んで励んでみるが、昨日も今日も届かない。力不足を明日にのせて、更に頑張っても、やっぱり達成には至らない。

気がつけば、計画不履行。思えば前にも同じことがあったような。不甲斐ない自分に腹が立ったり、自分は期待はずれの存在だと憂鬱になったりする。最も期待したい自分にも裏切られるのだから、他人への期待が落胆に変わってしまった過去はすでに数え切れないほどだろう。

聞けば世の中の人間関係の難題の多くは、互いが勝手に抱く期待が失望に変わる事に端を発しているという。こんな思いをしないためには、期待しないことが最善策だというのも頷ける。

しかし、本当にそれでいいのか? 人間とは欠けている所に人間味があり、落胆した部分を互いに補い合う所に、共同生活の味わいがあるのではないか。

期待はずれは今後も経験するに違いない。けれどもめげずに受け止めよう。いつか真剣に応えてくれる努力を互いに期待しながら。

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2028年06月01日(木)
【習慣】
一日を通して、私たちは驚くほどの選択を重ねている。コーヒーか紅茶かの選択から仕事の決断まで、大小数えきれない。ただし、研究者によると、実は一日の選択の半分は習慣に従っているだけ、いわば脳の自動操縦に頼っているのだという。

そう考えると、日頃から私たちの選択は危ういものとはいえないだろうか。高い意識で習慣として励行しているものもある一方、ゴミの投げ捨てのように、不適切さに鈍感になっていることも充分ありえる。

とはいえば、自分がどんな価値観のもと、何を習慣にするかという意識こそ重要であろう。もし自分が自堕落な習慣に依存するままであれば、いくら時間があっても成長は望めまい。

一流の人が、食事から睡眠、余暇に至るまで、己を律しているのは高い目的意識のゆえである。それに比して、心地よくてもためにならなければやはり悪習に過ぎない。つまらない習慣こそ簡単に身につくという。

習慣はすべて意識の産物である。何を目的として、何を習慣にすべきか。自分の心に問いかけたい。

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2028年05月01日(月)
【醍醐味】
時を経て価値がわかることがある。例えば、学生時代のある授業の思い出。クラスメートの誰かが叱られ、先生の諭す言葉にクラス全員が耳を傾けた事。その時の友達の様々な表情が記憶の片隅に残る。

普通に終わった何気無い時間でも、長く忘れ去られている間に、シーンだけが切り取られ、いつしか愛おしい追憶の一つに姿を変えている。

沢山の苦楽を経験した後に旧友と昔を振り返る時、大したドラマがあったわけでもないあの頃が、自分の想像を超えて懐かしく甦ってくる。友の横顔に、同じ時間を共に過ごしてくれた感謝の気持ちすら湧いてくる。

それは必ずそうなる訳でもなく、お互いがそれぞれの人生をひたむきに生き、まずまず納得できる人生を共有できるようになったからであろう。

成功したとか、誰かに勝ったとかがなくても、真摯な人の人生には幸せの麹がまぶされ、発酵して風味豊かな酒がたたえられている。だから、時には一献ゆっくり味わっても良いではないか。それが人生の醍醐味なのだから。

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2028年05月01日(月)
【身内の声】
人間の体とは、長らく脳がすべて思考、判断し、神経を通じて全身の筋肉や腎臓を動かすとされてきました。

ところが最近では、腎臓なら肝臓、肝臓なら肝臓が脳の指令に依らず、自身の機能として体を監視し、体調に応じてホルモンを激減させ、健康を維持しているのだという。

つまり、各機能は役割に忠実で、自分の裁量で全身の健康バランスに交換している。いわば、一個の人体は想像以上に分権がいきとどいた、ひとつの経営体といえるである。

ただ、それだけの機能を持ち合わせながら、体は常に健康かといえば残念ながらそうではない。絶え間ない刺激にさらされ、ストレスは溜まる一方。あまりの忙しさで具合が悪くなる例も枚挙に暇がない。

心にも体にも、負担がかかるのが現代なのである。だからこそ、心の叫びや臓器のうめきまで、心中の声を聴いてやらなければ、いつかひずみが出るものだ。一日の終わりには自分を省み、本来備わっている平衡感覚を損なっていないか、点検する姿勢が大切ではないだろうか。

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2028年04月01日(土)
【泥だんご】
子供達が砂場で夢中になって作る泥だんご。最初は無邪気な砂いじりが、気持ちを込めて丸めていくと、不思議なことに、少しの工夫でより丸くなっていく。

そして、水分と砂を加え、表面を磨いていけば、だんごはほぼ球場となり、かつ光沢を帯びるまでになる。

初めから上手にできるわけでない。割れることもしばしばだから、壊れる儚さ、失敗する悔しさも自然に学ぶ。それでも自分だけの宝を作るのに、子供達はいっそう夢中になっていく。

泥と砂さえあれはわくわくできる子供の集中力の何と素晴らしいことか。いや、かつては誰もがそうだった。

今、心配なのは大人の方。目標がありすぎて、わくわくできない人が多いとか。責任から逃れたい、失敗したくない気持ちもよくわかる。けれども、そんな今こそ泥だんごづくりの極意を思い出すべきではないだろうか。

 大事なのは無心になること。泥だんごを作るように、頑張れる自分を信じながら、無邪気に挑戦を続けていきたい。

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2028年03月01日(水)
【無我夢中】
勉強であれ、仕事であれ、スポーツであれ、無我夢中で取り組んでいると時間を忘れることがある。やるべきことをただやるだけ。ふとわれに返ったときは気分爽快。伴う成果に思わず自分をほめたくなる。

自分の好きなこと、得意なことであればすぐに夢中になれる。まただからこそ好きなことはより好きに、楽しいことはいっそう楽しくなるのであろう。

ただ、世の中はいつも自分が好きで、得意なことを選べるわけではない。むしろ、時には嫌いで、苦手なことも強いられる。その至極当然の成り行きを不当ととらえたり、意気消沈したりしていてはいただけない。

勉強が苦手、仕事は退屈、体を動かすことは大嫌い。そんな自分でもまずは雑念を払い、眼の前のなすべき物事に集中してみることである。そして無我夢中に取り組めたのなら、それは新たな楽しみの発見に違いない。

大切なのは”何をするか”ではなく”どのような心持ちでするか”ということ。無我夢中の境地を追求することは、充実の人生を味わうための一つの手段なのである。

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2028年02月01日(火)
【ドラマ】
誰でも仕事や人生において突如、窮地に陥ることがある。”なぜ悪条件ばかり重なるのか””こんなときに事故に遭うなんて”といった愚痴がついこぼれる。人生100年、平穏のうちに過ぎればそれにこしたことはないけれど、そうはうまく運ばない。時に悲劇に見舞われるのも人生である。

劇と言えば日常、私たちはテレビや書物を通してたくさんのドラマを楽しんでいる。おもしろいドラマの条件は、主人公の目の前に高い壁が立ちはだかっていること。そして主人公が絶体絶命のピンチから脱出し、大逆転するところに気分爽快、ドラマの醍醐味を味わっているものである。

とすれば、現実に危機に直面したとき、これもまたドラマの舞台、自分をその主人公に見立ててみたらどうだろう。不屈の闘志で事態を打開できればまさにヒーロー、観客ではなく主人公としても極上の喜びを味わえるのではなかろうか。

嘆くのはほどほどにして前向きに。逆境こそ最高のドラマの始まりだととらえ、まずは主人公らしく、自分の足で立ち上がることから始めよう。

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2028年01月01日(土)
【答えること問うこと】
試験が始めり、問題用紙が配られる。「始め」の声に用紙をめくって問題を見る。緊張が走る。問題を眺めながら、学んだ知識を整理して解答に取り掛かる。こうして学生時代、どれだけの問いに答えてきたことだろう。

大人になると、問題用紙は配られない。その代わりに、仕事の進捗一つひとつが大問題、日々対応に掛かり切りになっていく。こんな具合で、私たちは与えられた問いに答えるばかりの人生を歩んできた感がある。

それが悪いわけではないけれど、そんな人生にどっぷりと浸かっている今だからこそ、自ら問う、自らへも問う姿勢が必要ではないだろうか。

問えば拡散の意義が現れる。知るために問うのはもちろんで、それが理解を深め、考えを極める。

また自らを開放するためにも、問うことは重要だ。やりたいことを忘れずに、やるべきことばかりに左右されないように。本当の自分とはいったい何者なのだろう?

人生の主役は自分。そうあるために、答えると同時に問うことを怠ってはならない。

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2028年01月01日(土)
【絵は自在に】
子どもが描く絵はいずれも天才の冴えがある。ところが小学生になり、中学生から大人へとなるにつれて、次第に描けなくなってしまう。

うまく描かなければという焦り、恥は描きたくないといった緊張。あるいは、技法を知らないからという言い訳や理屈が邪魔をして、筆が一向に進まなくなるのである。

絵を描くコツは、こうした上手に描こうという捉われから、まず己を解放するところにあるのではないだろうか。他人の眼を気にせず、自分らしさに徹すれば、描く楽しさを思い出し、再びうまく描けるようになるに違いない。

人生も同じで、幼少のころ思い描いた将来は自由自在であったはず。それが年を重ね、学年の階段を上るうちに、過去の成績や他人との比較、社会の価値観に影響を受けて、つい思考が窮屈になっていく。失敗作にならないよう汲々としたのかもしれない。

自分の人生の絵が描けるのは自分だけ。たいせなのはその絵を自在に描くことではあるまいか。さあ、年の始めにふさわしい今こそ、夢のある絵を描いてみよう。

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